我々が生きている今日を、50年後の未来の美術史家、歴史研究家達が、過去を俯瞰してどの様な時代と捉えるのだろうか。この様に謎めいた書き方をしたのも、もし、今日が萎えた空気が充満した「空虚な時代」と見做され、一蹴されたとしたら、とつい想像したからに他ならない。仮にも創造者を自負している人であれば、もしそう見做されるようになっている中に居続けていたなら、果たして今日生きている意味があるのかと考える人も出てくるのではないだろうか。
この様なことを考える契機を与えられたのは、モスクワで後述する展覧会の打合せに参加してくれた国立美術館の学芸員と、打ち合わせ後、近くのカフェで50年後に美術史家、歴史研究家達が、幾つもの前衛芸術運動を総称する名称がないことに疑問を持ち、総体として「ロシア・アヴァンギャルド」という言葉を付けた、と話してくれたことでである。このことを聞いて、萎えた状況に置かれていると察知する能力があったなら、なす術がないとあきらめてはならない、と思った。
20世紀初頭になっても、西欧では芸術において、今、置かれている状況が、行き詰まっている状況を脱せていない、と切迫感を持って行動に移したパブロ・ピカソ(1881-1973年)の様な人がいた。ピカソは動物的勘を働かせて、自分達だけで解決することに限界があることを認め、他者からの力を借りねば、出口を見出せ無いと考えた人だった。もう一人挙げるとすれば、アンリ・マチス(1869-1954年)だろう。
何故、二人を挙げるのかと言うと・・・。1906年にマティスがパリのガートルド・スタイン(1874-1946)の家に向かう途中、骨董品店で小さなアフリカの木彫りの彫像(コンゴのヴィリ族の像)を購入し、その彫像をピカソに見せている。(『アリス・B・トクラスの自伝 わたしがパリで会った天才達』[ガートルド・スタイン著/金関寿雄訳/筑摩叢書272/1971年]参照)。マチスはフォービズム(野獣派/1904-1908年頃)の時代にあって、過去から延々と続いた遠近法に縛られた状況を察知し、色、形が主役になれる、と画期的な概念を主張し、革命を起こしていた時だった。見せられたピカソは感銘を受け、ジョルジュ・ブラック(1882-1963年)と共に、1907年にキュビズムを創始したのである。キュビズムの最大の特徴は、やはり遠近法を退けて、一つのものを「多視点」で捉え、それを平面上に再構築する概念を用い、多くの人に革命的挑戦と感じさせるものだった。案の定、キュビズムの試みは世界に激震を走らせ、蔓延していた萎えた状況を乗り切り、活性化させたのである。
キュビズムに特に影響を受けたのが、特にロシアの美術家達。1910年代半ばから1920年代に掛けてウラジーミル・タトリン(1885-1953年)が「構成」と呼んだことで呼ばれるようになったロシア構成主義、また、カジミール・マレーヴィチ(1879-1935年)が、1915年に提唱した抽象絵画の概念で、絶対主義と呼ばれるようになったシュプレマティズム。それに、1910年代前半に起こった、妻リリーを主題にした詩集で、世界で最も優れた叙情詩と評される『プロ・エト(これについて)』(機関誌『レフ』に掲載/1923年)を上梓したウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930年)のロシア未来派等がそれに当たる。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長に二年後に就任することになる、25歳の美術史家のアルフレッド・H・バー・ジュニア(1902-81年)が、友人と一緒に、近代美術の調査、情報収集の為、オランダの「デ・ステイル」(1917-32年)等を訪れた後、「公立デッサウ・バウハウス」(1925-32年/国立ヴァイマール・バウハウス[1919-25年]、私立ベルリン・バウハウス[1932-33年])に向かい四日間滞在している。ところが・・・・・・。1922年12月に成立したソヴィエト社会主義共和国連邦(以後ソヴィエト連邦)で、モスクワを中心に尋常でない芸術運動が起こっているという情報を旅行中に耳にしたからだろう。ベルリンで急遽予定を変更し、1927年12月のクリスマス・イヴの夜に、ベルリン東駅から二等列車でソヴィエト連邦に向かったのだった。
バーが実際にモスクワに足を踏み入れてみると、想像をはるかに超えた芸術の実験場になっていることに身体を揺さぶられ、もっと踏みとどまってこの状況を体験せずにはいられないと思い、一週間の滞在ビザを、約2ヶ月以上のビザへと延長を願い出たのである。
ロシアでは、1890年代から、ソヴィエト連邦時代の1930年代にかけて、実際、幾つもの前衛芸術運動が起こって盛り上がっていた。ヨシフ・スターリン(1878-1956年)の時代が到来する前、何故、あれ程の煌めきを感じられる運動が起こったのか。それは政治状況に業を煮やしていた芸術家達が、反動として軋轢からの解放を希求し、爆発したからに他ならない。
文学では先述したマヤコフスキーが特筆すべき人で、そのマヤコフスキーとアレクサンドル・ロトチェンコ(1891-1956年)の二人(マヤコフスキー30歳、ロトチェンコ32歳)が、1923年、オフィス「マヤコフスキー・ロトチェンコ広告エイジェント(1923-25年)を設立し、二人はこの時代を、疾風怒濤の様に駆け抜けていった。バレエ・リュス(ロシアバレエ団)を創設したセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929年)。そしてそのディアギレフから舞台音楽を委嘱されたイーゴリー・ストラヴィンスキー(1882-1971年)。現代演劇における最高峰の一人と称されるフセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940年)。美術では、先述したタトリンが、1919年から20年に掛けて、革命のモニュメントとしての「第三インターナショナル記念塔」を制作している。構想された螺旋状の鉄塔の高さは300メートルに達するものだった。 また、先述したマレーヴィチが、1915年に『黒の正方形(黒い四角)』を発表したことがシュプレマティズムの出発点になり、その3年後に『白の上の白』(1918年)を発表すると、同年ロトチェンコが『黒の上の黒』を発表し、 その発表から3年後の1921年3月には構成主義者作業グループ結成の一員となっている。エル・リシツキー(1890-1941年)は、シュプレマティズムとして示されていた幾何学的抽象を、現実の空間への応用を目指した「プロウン」(「新しきものを確立する為のプロジェクト」の意味)を提唱する。それに建築では、ヴェスニン兄弟(レオニード・ヴェスニン[1880-1933年]、ヴィクトル・ヴェスニン[1882-1950年]、アレクサンドル・ヴェスニン[1883-1959年])、更に1925年にパリで現代装飾美術・産業美術国際博覧会の「ソヴィエト連邦館」を設計したコンスタンチン・メーリニコフ(1890-1974年)、イリア・ゴーロソフ(1883-1945年)等が代表的人物。映画では、「戦艦ポチョムキン」を監督したセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948年)に代表されるように、建築、デザイン、写真、映画と、幾つもの運動が、連鎖し地響きを立てながら展開したのだった。
バーがモスクワで経験したことで、思想形成に決定的な影響を受けたことが痛い程伝わってくる。1928年に帰国して、雑誌『トランジション』に「『レフ』とソヴィエト美術」(『レフ』誌[1923-25年]は未来派の雑誌)という文章を寄稿したことがその証左である。
ウラジーミル・レーニン(1870-1924年)が亡くなると、スターリンと、レフ・トロツキー(1897-1940年)との権力闘争が激しくなり、その権力闘争は1927-28年にスターリンに軍配が上がる。その時期が、丁度、バーが訪ねた時と重なったことを捉えれば、バーは、実に多くの芸術家達と、最後の最後に直接出会えた幸運な人だったと言わねばならない。
スターリンが実権を握ると、社会の様相が一変し、市民は勿論のこと、芸術家達へ暗殺も辞さない恐喝が強まっていった。1930年4月14日、マヤコフスキーが死亡し、また、著名なグラフィックデザイナー、ゲオルギー・ステンベルクが交通事故に遭い不思議な死を遂げたことも、暗殺されたという説が飛び交っているように・・・・・・。芸術家にとって暗黒の時代が到来したことで萎縮し、自分の信念を曲げて当局の顔色を見ながらの活動にならざるを得なくなった人も多かったのである。
ロトチェンコは、1920年に国立高等美術工芸工房(ヴフテマス)が設立されると、同年2月から着任している。妻で、女性芸術家、デザイナーのワルワラ・ステパノワ(1894-1958年)と共に教員用集合住宅に入居するが、1928年に教員用住宅を離れ、同じくモスクワにあるヴフテマスの校舎の近くに位置する8階の教員用集合住宅の最上階に引っ越している。1930年にスターリン体制に依る政治的変化や前衛芸術に対する抑圧が進み、引っ越した二年後の1930年に閉鎖されると、同時にロトチェンコも解任されてしまう。そこで、ロトチェンコは、65歳で亡くなる迄住み続けたのである。
わたしは2001年に、ニューヨーク近代美術館での展覧会の巡回展が、東京都庭園美術館で開催された「ロシア・アヴァンギャルド展」(正式名称:「ポスター芸術の革命 ロシア・アヴァンギャルド展 ステンベルク兄弟を中心に」)の全体構成を、その分野における世界随一のコレクターだった松本瑠樹から直接依頼されて仕事をこなし、またその10年後の2011年10月末に、翌2012年3月から銀座のgggでロトチェンコ展(「ロトチェンコ 彗星のごとく、ロシア・アヴァンギャルドの窮児」)の企画・構成、評論、それに会場構成等も依頼されていたことでのモスクワ行きとなった。現在、ロトチェンコから三代目になる孫のアレクサンドル・ラヴレンチェフ(1951-)に会って打ち合わせをし、貴重な作品を借りることが目的のモスクワ行きだった。
アパートの内部に通されると、作品のみならず、ロトチェンコが実際に使っていた暗室等も見させてもらうと、ほとんど当時と変わっていない状況を見られて、そこで写真現像していたロトチェンコの息遣い迄聞こえてきそうだった。
キュビズムが、「多視点」から一つのものを捉える発見をしたことで、その挑戦が世界中に刺激を与えたと先述したが、わたしは、舞踊家の勅使川原三郎(1953-)と話している時に、「身体には幾つもの重心がある」と聞いて、衝撃を受けてしまい、いつ迄も、その言葉が頭から離れなくなっていた。その考えは、それ迄、歴史的に、バレエにおいて、身体には一つの重心がある、と言い続けられていた概念を解体するものであり、重心が一つに定まるどころか、流動し解放された身体へ概念を組み替えようとして発した刺激的な言葉と言えた。多くの重心とは、「多中心」と置き換えられる概念であり、2001年に拙著を上梓する際、『多中心の思考』と題名にしたことが、もう4半世紀前のことになるのか、とあらためて思ったのだった。
1952年生まれ。評論、建築、会場構成、彫刻、美術、ヴィジュアルデザイン、プロダクトデザイン等に従事。非常勤講師、慶應義塾大学(2003-2019)、早稲田大学(2015-2021)。






