自然科学では通常は用いることがない言葉「共鳴」を、当記事の文脈から改めて解釈したうえで論じていただきました。
MRI(Magnetic Resonance Imaging)など測定のジャンルの言葉とされ、情緒的文脈を有する「共鳴」を使うことはないそうです。
今回は「共鳴」というキーワードを「異分野、あるいはバックグラウンドの異なる専門家が同じプロジェクトにかかわることで相互作用が起こること」と定義づけしてお話ししたいと思います。
「共鳴」には望ましい相互作用が起きる場合とコンフリクト(対立状態)が起こる場合があります。望ましい相互作用は、相手に対してリスペクトがあると起こりやすくなります。一致したところがある、相手の仕事やステイタスを知っていて軽々に見下すことが生じにくい、大きな問題が起こっていないなどが前提となると、互いの良いところを生かして仕事がしやすい状況が生じることは集団の心理学でも既にわかっています。
一方、共通するバックグラウンドがないと集団バイアス(異質なものを排除したいという圧力)が起こりやすく、「こんなこともわからないのか」とコンフリクトが生じてしまう場合があります。ですから異分野の人を混ぜるのが常にいい結果につながるとは限りません。
集団バイアスはなかなか厄介なものです。私たちはインターフェイスを通じてしか中身を理解し得ないために、外見で物事を判断してしまうことが往々にして起こります。たとえば私が白髪で背が高い70代の男性のような容姿をしていたら、今の私と同じことを言っても捉え方は大きく変わるはずです。こういうことがバックグラウンドの異なる人間同士のコミュニケーションでは特に起こりやすくなるのです。
ですから異分野の人同士のやりとりが行われる場合には、目に見えやすい、わかりやすい手掛かりとなるものを整える必要があります。
たとえば仕事で評価されることは当たり前のことですが、それ以前に「~らしい格好」をすることが挙げられます。建築家の方であればスタンドカラーとか黒とか白とかを着る方が多いとか。「~らしい格好」をしていると能力に信頼がおけるとみなされやすいので、以外とコンフリクトを生まずに済みやすいところがあります。言い換えれば、それらしい格好を求められている、あるいは才能にふさわしい恰好をするという何らかの圧があるからだとも言えます。インターフェイスが機能していないと、本来の真価が評価してもらえないということが起こるわけです。
こうやって口に出すと「なんだ、こんなことか」と思われるようなことかもしれませんが、意外と見過ごされがちな点ではないかと思います。
私たちは自分で思っているよりずっと、見慣れない情報や慣れていない考えを受け入れるには高いハードルを設けています。実際、新しい考え方や自分と違うものの見方を、大多数の人は自然には受け入れられません。しかし、違う集団に属している人、あるいは違うバックボーンを持つ人の間に「共鳴」が生じるためには、お互いに認め合わなければなりません。では「認め合う」という望ましい結果を誘導するにはどうしたらいいのか、何を触媒としたらいいのでしょうか。
そこで重要になってくるのが自分と違うものを美しいと思える「美の認知」です。この認知機能があるがゆえに私たちは自分と違うものを美しいと思えることができ、認め合うことができるのです。逆にこの機能がないと自分と違うものに出会うとぶつかり、敵対してしまうことになります。勝つか負けるかというのみの関係にしかならなくなるわけです。
「美の認知」という脳機能領域があることは、ホモ属という進化の過程にあるカテゴリーのうちで、私たちホモ・サピエンス・サピエンスのみが生き伸びてこられた大きな理由のひとつだと考えられます。
脳の構造として簡単に説明すると、「美の認知」には前頭前野のほとんどすべての領域が使われています。前頭前野は人間の脳の際立った特徴である大きく膨らんだ前頭葉の前半分にあたるところで細かく機能分化しています。「美しい」「感動する」「共感する」、あるいは、「してはいけない」「相手に配慮して言わない」といった抑制や、倫理など、行動の制御を担います。さらに右側の側頭頭頂接合部(TPJ)は時間や空間、さらに道具の認知や暗喩の理解などを担うと考えられています。
これらは特に空間のデザインをする場合にはものすごく使うはずの場所で、大きさには多少の差異はあるものの、30歳くらいまで徐々に成長していくとされています。
では「美の認知」がなぜ生き延びるために重要なのでしょうか。身体がとても弱い人間は、筋力も弱くて戦えない、走っても勝てません。しかも外甲殻がないので柔らかくて美味しい。特に子どもは子どもが次の子どもを産むまでには十何年もかかり、育てるにも教育にも莫大な能力がかかります。それほど脆弱な生物なのに、地球上の哺乳類の9割は私たち人間とその家畜です。ではなぜこれほど繁殖できたのか。その答えは、集団をつくる能力にありました。
個々がどんなに弱くとも集団をつくって分業し、それぞれが「戦う」「武器をつくる」「子どもを産む」「育てる」など違う役割を担ってあたかも疑似的な一つの生命体であるかのようにまとめあげることで、ほとんどの野生の動物に勝てる能力を得たのです。このように集団をつくる能力が私たちの武器だったと考えると、これだけ脳の前頭葉が大きいことにも理由がつけられます。
集団をつくることは努力すればできるというものではありません。他人に対して「この人ステキだな」「この人の見方は面白いな」「この人からもっと学びたい」など、プラスの何かがあると思えなければ集団は成立しないからです。そのプラスの共感を生じさせる懸け橋として大きな役割を果たしているのが美を認知する能力なのです。
この領域を鍛えるために非常に良いと考えられるのが現代アートの鑑賞です。物事を立体的に捉える訓練にもなりますし、教育としても大いに価値があると考えられるからです。
異分野の方、自分と違う面を持った人の見方を見ると、自分の視点からは見えないものを誰か違う人から光を当てるとこういう風に見えるのだと知ることができます。「自分と違うやり方で世界を見ている人がいる」と知るためにも、時間認知や空間認知を鍛えることにも役立っていくと考えられます。あらゆる人にとって意味があると思いますし、特に建築系の学生にとっては、現代アートの鑑賞はかなりいい方法なのではないかと思います。
ここで現代アートと限ってお話ししているのは、無条件に美しい・珍しいと思える近代以前のアートに対し、現代アートにはむしろそれらの基準を揺さぶるようなものが評価される面があるからです。ある種の現代建築でも同様ですが、時には美しいと言えないものでも非常に刺激が強くて興味深いものの方が「強度が高い」という言い方で評価されることもあります。そのために現代アートの鑑賞では「美の認知」に加えて前出のTPJなど別の脳機能領域も使うことになり、たとえば倫理と一緒の領域で処理されているだろうと言われています。エシカルなことや哲学と結びつきやすいのもそのせいかもしれません。
もちろん、アートは明日生きていくためには必要ないかもしれません。現に高校教育で美術はマイナー科目ですし、そもそも社会通念として「美術なんて裕福な人に許された贅沢で明日には役に立たない」と思われています。
しかし、それならなぜ私たちの脳はこんなに広い領域を美の認証に使うのでしょうか。脳はその維持にものすごくコストがかかるもので、無駄な機能を持つ余裕も、無駄な使い方をする余裕もまったくありません。ということは、無駄ではないはずなのです。
よく「現代美術はよくわからない」「理解できない」という方がいますが、それはそれでいい、そこで無意識のうちにどうふるまっているか、どう認知が変わるのかが重要なのですから。たとえば富士山のように自分が抗いようのない大きなものを見た時に人間の認知が大きく変わることが研究からわかっています。同様に公共のアートや大きな建築などにもそういう役割があるように思えますし、携わる方には自分の作ったものが人に行動変容を起こしているということに意識的であってほしいし、誇らしい仕事だとご自身をリスペクトしてほしいと思います。
生き延びるということは、要は大きな衝突をどうやって回避するか、他の人と適切な刺激を与えあいながらどれだけ豊かに楽しく生きるか、安全に生きるかということであって、IQの競争でもなければ、SNSで人からどれだけ評価されているかということではありません。本質的に私たちがフォーカスすべき能力は、もっと「共鳴」を目指した方向にあると思います。自分と違う人からどれだけ学べるか、自分と違う人にどれだけ豊かなものを渡せるか、そうすることによってお互いに満足してより豊かでより多くのものを得た実感や充実感とともに私たちは生きていけるのではないでしょうか。
脳科学者/医学博士/認知科学者
東日本国際大学教授/京都芸術大学客員教授/森美術館理事
1998年東京大学工学部応用化学科卒業。2008年東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。同年フランス国立研究所にて博士研究員として勤務。10年帰国。15年東日本国際大学教授に就任、20年京都芸術大学客員教授に就任、22年森美術館理事就任。
現在、脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を精力的に行っている。科学の視点から人間社会で起こりうる現象及び人物を読み解く語り口に定評がある。著書多数。
趣味:現代アート、和装、読書(歴史、ミステリー)、香りを楽しむこと、スキューバダイビング、クレー射撃






